つっぴ君と 通販の誘惑

つっぴ君は、深夜番組が好きでした。一人、夜更かしして観る番組のなかには通販番組もありました。


オリンピックのような量販店に行くと、つっぴ君は時々挙動不審になりました。エスカレーター脇にあるうさんくさい「便利グッズ」コーナーに吸い寄せられるように近寄って行くのです。「これ、これ!どんな汚れも落ちるんやで!」などと言っては、植物由来のクリーナーを裏返し、取説を熟読していました。「これ、これ!水垢も油膜もこれ1本で撃退なんやで!」などと言っては、バタ臭い派手な蛍光色だけで描かれたラベルの、妙に巨大なボトルを手にしていました。


私にしてみれば、この短期間での高枝切りばさみの超進化を見れば、通販の商品というものは「要するに未完成品」なのは明々白々だと思うのですが、つっぴ君は違いました。「いやー、危うく電話しちゃうとこやったで!」など言いながら楽しげに笑っているところをみると、通販番組とは視聴者参加型番組の一つと捉えていたようでした。当然、量販店で商品を見かけたら駆け寄るのも「番組参加」のお楽しみのうちだったようでした。


そんなつっぴ君にも、どうしても買いたいものがありました。お掃除便利グッズです。ノズルから蒸気を吹き出すハンディクリーナーで、ノズルは何種類かのアタッチメントがありました。長いコードで、お部屋の隅々、窓の外までピカピカにできるという優れものです。蒸気で汚れを浮かして拭き取るので、余計な洗剤は必要ありません。「お掃除つっぴ君」だの「ぴかぴかつっぴ君」と呼ばれていたつっぴ君の食指が動かぬはずがありませんでした。お掃除に関するつっぴ君の業績は疑いがなく、私がそのお掃除グッズの購入に反対するはずも、また、ありませんでした。


蒸気でピカピカのハンディクリーナーを手に、つっぴ君は年末の大掃除に臨みました。面倒な窓掃除、手強いガス台掃除と、つっぴ君は次々と難敵に挑戦していきました。いつものように大掃除は滞りなく終わり、私の「すごいねぇ〜。ピカピカだねぇ〜」という賞賛を「当然」とつっぴ君は受け流し、新年を迎えたのでした。


そうして翌年、夏の大掃除の時期がやってきました。ハンディクリーナーをスタンバイしてお掃除マスターつっぴ君を迎えると、つっぴ君は何故か冴えない顔をしていました。「それ、いらん」とハンディクリーナーを受け取らないのです。「君、使ってええで」と言われて使ってみてわかりました。使える時間が短すぎるのです。ハンディなだけに水を入れるタンクも小さく、10分も使えば蒸気は切れてしまうのでした。これでは、ノリノリでお掃除をすることは不可能です。結局つっぴ君は二度と、このハンディクリーナーを使うことはなく、つっぴ君の落胆ぶりになるべく使おうとした私も数回で使うのをやめてしまいました。


ハンディクリーナーがっかり事件を機に、つっぴ君の通販熱は冷めたかというと、そうではありませんでした。通難番組は見て楽しむものと心を決め、夜更かしの通難番組鑑賞は続いたのでした。たまにデパートやスーパーで実演販売があると足を止め、「ほうほう」と訳知り顔で鑑賞しては、心ゆくまで参加することを楽しんでいました。

つっぴ君と 信じられない妻の食生活

つっぴ君は、甘いものも好きでした。
とは言っても、チョコとうまいぼうなら、うまいぼう、おはぎとベビースターなら、ベビースターでした。ですから全てにおいて甘さが第一義である私の好みは理解しがたい部分もあるようでした。


最もつっぴ君が驚いたのは、私が練乳が大好きだということでした。つっぴ君にとって練乳は、イチゴにかかっていたり、かき氷にミルキーな味わいをそえる脇役でした。私が練乳を主役級に遇する姿に、つっぴ君は驚いて言葉もでない様子でした。「なんで練乳を食べるの!?」と聞くつっぴ君に「おいしいから」と答えると、つっぴ君は驚きを通り越して怒り始めました。「死ぬで!!」それがつっぴ君の言い分でした。
さすがの私も致死量まで練乳を食べるつもりはありませんでした。でも真剣に「死ぬで!!」とお説教をするつっぴ君の前では練乳は控えめするようになりました。しかし、つっぴ君はさらに衝撃的なシーンを目撃することになったのです。


二人で実家に遊びに行った時のことでした。帰り際に玄関で、私の父が「はい。お土産」と私に手渡したものを見て、つっぴ君はまたも絶句してしまいました。それは3〜4本のチューブ入りの練乳だったのです。父の前では黙っていたつっぴ君でしたが、通りに出たとたんに「かしなさい」と私の手から練乳を全て取り上げました。「こんなものくれるなんて、お義父さんはどういうつもりなの!お義父さんは君が練乳食べるの知ってるの!?」もちろん大好物だと知っているからくれたのです。でも、つっぴ君は「こんなもの食べてたら死ぬ!」と、お土産の練乳を没収したのでした。


私が甘いものが好きで際限がないことを、つっぴ君はよく知っていました。結婚して間もないころのことでした。「いってきます」と家を出たつっぴ君が、数秒で再びドアを開け、玄関先に私を呼びつけました。手に紙袋を抱えて、つっぴ君は言いました。「いいですか?今、表にこの紙袋がかかっていました」「おとうさんだ!ホワイトデーのお返しだよ」私がそう答えて紙袋の手を伸ばすと、つっぴ君は紙袋を私の手から遠ざけて、また言いました。「表にかかっていたんです。いいですか?誰からの物かわかるまで、絶対に食べてはいけません。おにいさんが帰ってくるまで、絶対に食べてはいけません」私は絶対に父の置いていった物だと主張しましたが、つっぴ君は首を振り、私が「絶対に食べません」と言うまで紙袋を渡してはくれませんでした。そして、ドアが閉まる瞬間まで私の顔を見ていました。


つっぴ君は、甘ければ道に落ちていた物でも私は食べると思っていたようでした。「毒入り危険」と書いてあっても私は食べると思っていたようでした。妻が玄関に下がっていた毒入りお菓子を食べて死ぬことを「あり得る」と判断したつっぴ君は、7匹の子やぎの母やぎのように注意に注意を重ねて出勤していきました。
つっぴ君が心配した通り、お昼前には私は包みを開けて中のチョコレートを食べましたが、現在に至るまで元気抜群です。

つっぴ君と 夏のお出かけ

つっぴ君は、暑いのが苦手でした。夏バテするとかということではなく、人一倍暑がりだったからです。


エアコンの効いた室内で、ごろごろ過ごすのが好きでした。
帰宅すると、たまに冷えたビールを飲むのが好きでした。
アルコールを止められてからは、帰り道に時々ノンアルコールビールを買ってきて、ご飯の前に「ぷはー」っと飲み干していました。


夏にわざわざ外出するなんて、とんでもないと思っていたようでした。でも、プールへ行くのは好きでした。それだけ出かけるのが億劫なら近場のプールでもいいはずなのに、プールとなると大磯やよみうりランドサマーランドまで行くのも厭いませんでした。ただ一つつっぴ君が困ったのは、毎年水着が窮屈になっていったことだけでした。


暑いと言いながらも夏祭りにも行きました。季節のものなので、屋台の焼きそばの類いが食べたければ、夏祭りでもなんでも行かざるを得なかったのです。一時話題になっていた麻布十番の夏祭りにも行きました。多国籍が売り物の夏祭りで、屋台には国際色豊かな食べ物が並んでいました。私はふだん目にもしないような異国の食べ物を買おうとしたのですが、つっぴ君は「もともと屋台向きの食べ物じゃないかもしれん。高温多湿の日本で安全性に疑問がある」という理由で「ぴーぴーになるからダメ」と許してくれませんでした。


最近では、近所の夏祭りでも国際交流の名の下に異国の屋台が出店しています。商店街にたこ焼き然としてケバブのお店があったりしますし、つっぴ君もその後「会社の飲み会でシュラスコ食べたで!」と言っていました。今なら初耳っぽいカタカナの屋台料理も許可が下りるのではないかと思っています。


それでも、きっとつっぴ君は私が並んで買ってきた異国の食べ物は食べなかったでしょう。「わ!変なはっぱがついとる!」とか「薬屋の匂いがする!」と言って敬遠し、私が食べると「わ!君、鼻からなんかでてきとる!!」などといわれのない言いがかりをつけては、笑ったろうと思います。

つっぴ君と 世紀の天体ショー

つっぴ君は、天文学が好きでした。
時々、天文学の本を買ってきていました。本棚や、鞄の横に置いてある天文学の本を「貸してー」と言うと「ええで」と読ませてくれました。「面白かったー」と返すと「うん」と答え、「よくわからなかった」と返すと「おにいさんも」と答え、「こっちのがわかりやすいで」と他の本を薦めてくれました。新聞の書評欄で面白そうな本を見つけて知らせると、無言で書評を読み、ある時帰宅するや鞄から出して「おもしろかったで」と貸してくれたりもしました。


私たちが中学生の頃、カール・セーガン博士の「コスモス」が放送されていました。つっぴ君も私も夢中で観ていました。
10数年前、「コンタクト」という映画が公開されました。カール・セーガン博士が原作のSF映画です。いつものように、つっぴ君は過度の期待は抱かないよう、細心の注意をして映画に臨みました。でも、始まってすぐに、くっと魂を掴まれてしまっていたようでした。オープニングが、かつて夢中で観た「コスモス」の雰囲気そのままだったからです。観終わって、また二人であぁでもない、こうでもないと話をしました。「ラストが甘いのぅ」と言うつっぴ君に「そこがいいじゃん」と言うと「そうやのぅ」と、なんだか懐かしそうな顔をしていました。


今日は皆既日食でした。つっぴ君は決して悪石島へ行ったりはしなかったと思います。でも、たぶん「代休とったんや」と言って休んでいたはずです。たぶん「昔より、いいのが安いのぅ」と言い訳しながら、望遠鏡も先週末には買っていたことでしょう。そして、今日の曇天には「こうなると思ってたんや」と、一応出かけた土手の上でつぶやいていたと思います。


つっぴ君は一部の情報によると虹も出し放題らしいので、皆既日食もし放題なのかなぁ。次の日食は観られるといいなぁと思います。



映画「コンタクト」 また観たいです。爆音シネマでやらないかなぁ。
http://www.youtube.com/watch?v=kNAUR7NQCLA

つっぴ君と 旅立つローバー

つっぴ君は、ローバーこそ生涯をともにする車と決めていました。何故なら会社が倒産したみたいだったからです。買い替えようにも値もつかないと言っていましたが、何より気に入っていたことは確かでした。


そのローバー君、本日ドナドナされてゆきました。購入しておよそ10年でした。人間にするといくつになるのかわかりません。でも、大事に乗っていましたし、修理もきちんとしていました。とてもきれいな姿で旅立ってゆきました。


つっぴ君は働く車が好きだったので、ローバー君がワイヤーをかけられてクレーンでつり上げられる様子もわくわくして見ていただろうと思います。車体が揺れると「大事にしてやー。」とハラハラしていたかもしれません。つっぴ君がぴかぴかにしていたままの姿で、もうつっぴ君のところへ届いていることでしょう。


英国紳士のジェントルなドライビングをしてほしいです。



長野です。

高原野菜の間で一休みしていたところです。

つっぴ君と 不二家のペコちゃん

つっぴ君は、高校時代、通学のバッグにペコちゃんの缶バッジをつけていました。


私たちの高校は、とても自由な校風でした。文化祭の時には軍服姿やヤクルトのおばさんの制服姿の生徒もいました。普段でもアロハシャツにモヒカンの生徒もいました。その中で美大を目指す男子が通学バッグにペコちゃんをつけているのは、キャッチーの一言で済むくらいだったと思います。


つっぴ君のこの缶バッジは、女子にも人気がありました。ある日の授業中、消しゴムか何かをこつんと当てられて振り返ると、友達の一人がペコちゃんを制服につけて(見て見てー)とアピールしていました。あ、同じの持ってる、と思ってつっぴ君のバッグを見ると、ペコちゃんの姿がありません。こんなふうにいつのまにかバッグから外されて、あちこちに出張していることもありました。


文化祭では、つっぴ君は喫茶店の青いエプロンにペコちゃんをつけて働いていました。いつにない晴れがましい舞台に登場したペコちゃんは、いつも以上の笑顔を振りまいていました。


このペコちゃんの缶バッジは、私があげたものでした。たぶん何かのお礼だったと思います。この頃、私はペコちゃんが大好きで、つっぴ君がペコちゃんを持っていたらかわいいだろうなぁと思ったのでした。でも、バッグやエプロンにつけてくれるとは思っていませんでした。


ペコちゃんにはスペアが二人いました。つっぴ君がなくしてもいいように用意してあったのですが、つっぴ君はペコちゃんをなくしたり壊したりはしませんでした。今はつっぴ君と一緒に通学した傷だらけのペコちゃんと、きれいなままの補欠の二人、ペコちゃんの缶の中で暮らしています。



今年、一人で大量のミルキーを食べて手に入れたペコちゃん宝箱です。

つっぴ君と 文化祭3

つっぴ君は、ある日、近所の高校の文化祭へ行くと言い出したことがありました。


数年前のことでした。商店街に貼ってあった近くの高校の文化祭のポスターを見つけたつっぴ君は「文化祭、行くで」と言いました。私は小学生の頃よく遊びに行った高校の文化祭でした。でも、つっぴ君には特別な思い入れのある場所とは思えません。高校生にも、これといって関心もなく、何故つっぴ君が文化祭へ行くと言うのか、私にはわかりませんでした。つっぴ君は時々思ってもいないことを口に出しては、私が混乱するのを見ておもしろがることがありました。私は当日まで本当につっぴ君が文化祭へ行くつもりなのか、わからないでいました。


日曜日の午後、少し遅くなってから、つっぴ君はソファから腰を上げ「行くでー」と文化祭へ向かいました。最終日の夕方近くで、催しもあちこちでお片づけに入っている様子でした。つっぴ君はお客さんの姿もまばらな、静かな学校内を特に目的もない様子で歩いていました。教室をのぞいてみたり、渡り廊下からグラウンドを見下ろしたり、土手を眺めたりしていました。
どこか行きたいところがあるのかな、何か見たい物があるのかなと、つっぴ君の様子を見ながら一緒に歩きましたが、わかりませんでした。つっぴ君は昇降口に貼ってある手書きのポスターやチラシを見ては「へたっぴぃやのぅ」と笑って外へ出ると、校舎の周りをぷらぷら歩きました。


いつもと違って足取りもゆっくりでした。展示物を手に取ってみたり、壁に貼られた何かの研究発表を読むともなしに読んでみたり、講堂ではバンドの演奏を少し苦笑まじりの笑顔で楽しんでいました。とにかくなにもかもがゆっくりゆっくりしていました。私は、つっぴ君はいったいどうしてここに来ようと思ったのかがわからないまま、一緒に文化祭を回り、家に帰りました。ずーっとこの時のつっぴ君の気持ちがわからなくて、気になり続けていました。


今もとても気になって、本当は私はどうしたらよかったのかなぁと思っています。何かつっぴ君の気分にぴったりの話題があったのではないかなぁと思えてなりません。でも、きっとつっぴ君は楽しかったのだろうと思います。何かを懐かしむように学校を巡っていたつっぴ君には、私の知らない思い出もいっぱいあったでしょう。それは一緒にはできなかったけれど、また高校の廊下を一緒に歩けたことはよかったと思っています。